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100万回生きたねこの意味は?何を伝えたかったのか輪廻転生の意味も考察!

100万回生きたねこの意味は何?輪廻転生から考える

佐野洋子 作・絵の100万回生きねこは 1977年10月に出版され2013年9月現在で通算200万部以上発行されています。

また2004年には、中国で翻訳文が発売され販売部数が100万冊を突破するミリオンセラーとなりました。

なぜ、この100万回生きたねこは こんなにも多くの読者の心を掴むのでしょうか。

この、作品の主人公は、トラ猫、100万回も死んで、100万回も生きた猫。なぜトラ猫は100万回も生きたのか?その意味は何でしょう!

100万年も死なない猫であったが、最後に愛する白猫に出会い、白猫が死んだときトラ猫は初めて泣きました。

そして、トラ猫は、もう決して生き返らなかったのです。

というお話。

この記事では、まず、100万回生きたねこの あらすじをもう少し詳しくご紹介させて頂き、100万回生きたねこが 100万回も生き続けた意味と最後に死んだ意味を、輪廻転生という観点から紐解いていきます。

 

100万回も生きた意味はなに?100万回生きたねこのあらすじをご紹介!

100万回も生きたねこの意味は何?輪廻転生から考える

100万回生きたねこの 絵本は、こう始まります。

100万年も しなない ねこが いました。

100万回も しんで、100万回も 生きたのです。

りっぱな とらねこ でした。

100万人の 人が、そのねこを かわいがり、100万人の

人が、そのねこが しんだとき なきました。

ねこは、1回も なきませんでした。

 

これが 100万回生きたねこ の 冒頭文です。

主人公のとらねこは 100万年 同じ人生(猫ですが)をずっと100万年も 生きていたのではありません。

1度の人生で、生まれてそして死んで、そして、次の人生で また 生まれて、そして死ぬ。

つまり、生まれて、死んで、また生まれて、死んでを100万年も繰り返していたわけです。

なぜ トラ猫は 100万年も 生まれかわったのでしょうか。その意味はなんでしょうか。

そして、最後に愛する白猫に出会い、白猫が死んで 猫は初めて泣き、もう二度と生き返らなかったのです。

では、なぜ、とらねこは もう二度と生き返らなかったのでしょうか。

その意味はなんでしょうか。

絵本に書かれている、トラ猫の数々の生涯を、白猫に会うまでと、白猫に出会ってからに分けてご紹介しましょう。

 

白猫に会うまでの猫の数々の生涯について

100万回生きたねこの 絵本では、白猫に会うまでの主人公のトラ猫の 6つの生涯が書かれています。

6つの生涯は、トラ猫はいつも誰かに飼われている 猫だったのです。

1つ目の生涯は、猫は王様のねこでした。

2つ目の生涯は、猫は船乗りのねこでした。

3つ目の生涯は、猫はサーカスの手品使いの猫でした。

4つ目の生涯は、泥棒に飼われている猫でした。

5つ目の生涯は、ひとりぼっちの おばあさんの猫でした。

6つ目の生涯は、小さな女の子の猫でした。

どの飼い主も 猫をとてもかわいがりました。

しかし、猫は どの飼い主も 大嫌いでした。

どの飼い主も 猫が死んだとき なきました。

しかし、ねこは しぬのなんか 平気だったのです。

白猫に出会ってからの猫の生涯

いつも誰かに飼われて かわいがられている猫 だったトラ猫は 誰の猫でもない 野良猫になりました。

トラ猫は 自分が 大好きでした。

どんなめす猫も トラ猫の お嫁さんに なりたがりました。

しかし、その中で トラ猫に 見向きもしない 白い美しい めす猫がいました。

トラ猫は その白い美しいめす猫に 強く心惹かれます。

初めて、ねこは自分以外を好きになりました。そして、いつも一緒にいたい、と思いました。

白猫は 可愛い 子猫を たくさん うみました。

やがて 子猫たちは 大きくなってどこかへ行きました。

白猫は 少し おばあさん になっていました。

トラ猫は 白猫と 一緒に いつまでもいつまでも生きていたいと思いました。

しかしある日、白猫は トラ猫の 隣で 静かに動かなく なっていました。

猫は、初めて 泣きました。

100万回も泣きました。

そして、トラ猫は 白猫の 隣で動かなくなり もう 決して 生き返りませんでした。

 

100万回生きたねこが死んだ意味は何なのか?輪廻転生から考えてみる!

100万回生きたねこの意味は何?輪廻転生から考える

100万回も生きたねこは、100万回も生まれて、100万回も死んだのです。

生まれかわり、死に変わりすることを、輪廻転生といいます。

輪廻とは、車の車輪が回るようにずっと繰り返し周り続けることだといいます。

命も、車の車輪が回るように、何度も何度も生まれかわり死に変わりするというのです。

では、それには何の意味があるのでしょか。

100万回生きたねこが、100万年も死なかったというのは、ねこは輪廻転生したのです。

では、なぜ猫は100万回も輪廻転生したのでしょうか?

その意味は一体どこにあるのでしょうか?

 

輪廻転生とは何?

輪廻転生とは、車輪がクルクル回るように、何度も何度も生まれ変わり死に変わりすることをいいます。

肉身をもって生まれた者は、必ず死ぬ時が来ます。死んだ者の肉体は、無となるが、しかし、肉身の内に宿る魂は不滅であるというのです。

魂は、やがてあの世に行き、そしてまた、肉身をもって生まれ変わるのです。

魂は、よりよい魂となるためにこの世での修行をしているといいます。

様々な経験をし、いろんな人に出会い、何かを感じ何かを悟っていく。

魂の修行で、一番大切なのが悟りであるといいます。

悟りにも、いろいろな悟りがありますが、その中で大切なのは、他者への愛です。

自己の利益しか考えなかった者が、他者への利益を考え、他者の為に生きること。

そして、究極の悟りは、自己愛を超えて、他者を自分のように、あるいは自分以上に愛することです。

神が創られた魂は、その奥底ではつまり、無意識の世界ではそれぞれ神に繋がっているので、究極の魂の完成がどんなものか知っているのでしょう。

しかし、意識のレベルでは、それを感じることは難しいともいえます。

輪廻転生の意味は、魂が完成を求めて止まない結果だといえるのです。

究極の魂の完成は、自己を超えた他者への愛を深く感じ生きることが出来たとき達成されるのです。

 

百万回生きた猫の生死を輪廻転生から紐解いてみる!

100万回生きたねこは、100万回も死んで、100万回も生きたのです。

つまり、生まれて死んで、また、生まれて死んでと輪廻転生を100万回も繰り返してきたわけです。

なぜに、100万回も輪廻転生をしなければならなかったのでしょうか。その意味はどこにあるのでしょうか?

愛する白猫に会うまでの、トラ猫の生涯は、常に誰かに飼われていて、常に飼い主にとても愛されていました。

しかし、ねトラ猫は、いつも飼い主が大嫌いでした。

つまり、トラ猫は、愛するということを知らなかったのです。

トラ猫が死んだとき、どの飼い主もひどく悲しみ泣きました。

しかし、ねこは、自分が死ぬのも平気だったのです。

なぜ、トラ猫は死ぬのも平気だったのでしょうか。

愛のない生涯、愛を感じることのない人生(ねこ ですが)は、全く無意味に時間を過ごすに等しいということではないでしょうか。

つまり、死んだも同然。

全く生きる実感のない、感動のない人生を繰り返していたのです。

しかし、白猫に出会い、初めてトラ猫は 自分以外を、好きになりました。いや、自分よりも好きになったのです

ねこは、初めて愛することを知ったのです。

そして、白猫が死んだとき、初めて泣きました。泣いたことのない ねこが 初めてないたのです。

そして、トラ猫は、もう決して生き返りませんでした。ねこは、輪廻転生に終止符を打ったのです。

つまり、愛を知って、トラ猫の魂は生きることの意味を初めて悟ったのです。

愛を知って、ねこの魂のこの世での修行は完成したのです。

100万回生きたねこの意味は何?まとめ

 

100万回生きたねこの意味は何?輪廻転生から考える

100万回も生きたねこは、多くの人の心を掴んだベストセラーです。

なぜ、この絵本はこんなにも多くの人の心を揺さぶったのでしょうか?

その意味は、どこにあるのでしょうか。

100万回いきたねこは、子供から大人まで楽しめる絵本ですが、真に心に染み入っていくのは大人の読者だと言えるでしょう。

一見、単純のようなストーリーですがその意味は深いものがあります。

なぜ、この絵本は多くの人の心を揺さぶるのでしょうか。

それは、人は誰しも 愛する ということが人生にとって一番大切であるという共通認識があるからではないでしょうか。

しかし、それは そうたやすいことではありません。

人は誰もが、愛を求めてめて生きてますが、真に愛することは、自己中心的な愛ではないからです。

もしかしたら、、白猫に会うまでの人生のように、愛とは無縁に生きてしまっていることもあるでしょう。

そんな空虚な数々の生涯を生き続けたトラ猫が、白猫に出会い本当に愛することを知り、白猫が死んで激しく泣きました。

愛することの素晴らしさとまた切なさは、多くの人の心の琴線にふれるものがあるのでしょう。

100万回いきたねこの 数々の生涯を通して、生きるとはなにか、人生とはなにか、を考えさせら絵本です。

そして、その意味は、真に生きることとは、愛すること、ということに帰着するのではないでしょうか。